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デリー市内

デリーは、数々の異なる王朝時代に渡って、ヒンズー及びイスラム教徒による支配や戦争、改革などの表舞台となり、また目撃者であった街です。また、近代では英国の統治下に長く置かれたため、英国風の精巧な貴族構造が形作られた場所でもあります。 こうした数々の異なる人種、文化、権力機構による統治が現在のデリーという、建築学的にも、文化遺産的にも払拭不可能な素晴らしい都市を作ったのです。 デリーの街の歴史を紐解くと、なんと、2500年も昔までさかのぼることができます。12世紀Chauhan王朝の時代までは北インドの中におけるデリーはヒンズー教の重要な中心地として栄えていました。しかし、1193年、イスラム教徒であったクトゥブ=ウッディン=アイバクがこの街を占領して以降、1206年から1526年にかけてデリーのイスラム教徒スルタンによる統治が絶え間なく続き、それが後にムガル帝国となって1857年まで続く事になるのです。 その後、英国はデリーを重用な商業の中心としてとらえたため、1911年までここを首都として統治を行いました。英国による統治政策及び街づくりはしかしながら、非常に精巧な都市計画に沿って行われた為、デリーに新たな顔を持たせる事となったのです。今日のデリーの人口は英国統治当時、もしくは統治終了後しばらくの間、商業の中心都市にあった莫大な機会を求めて他の土地から移り住んできた者達によって成り立っているのです。

国立博物館
月曜日定休インドに関しての興味を一層掻き立ててくれるのがここ、国立博物館です。1949年8月15日(すなわちインドのイギリスからの独立記念日に合わせて)にオープンしたこの博物館は、考古学的資料から歴史的に重要なものまで、彫刻や絵画、ジュエリー、研究資料、数々の芸術品がところ狭しと並んでいて、まるで宝物博物館のよう。現存している展示物は全て、ラシュトラパティ=バワン(大統領官邸)にあるDurbar ホールに展示してあったものを1960年に現在の博物館へ移したものです。 現在、インド全域からもたらされた芸術品は、時代にして5000年以上ものスパンをもち、20万点以上に及ぶ所蔵品を誇っている。ここを訪れたら見逃すわけにはいかないものが幾つかあるが、それは、仏教芸術、タントラ芸術、宝飾品の数々や古代のコイン、インド北部に住む民族のライフスタイルを展示したものや、織物、彫刻に楽器など、一日の見学だけでは到底全てを網羅することは不可能かもしれません。 内部には博物館の他に、研究員や学者などが立ち入れる図書館が併設されており、無料ガイドツアーやフィルムの上演なども行っているので、現地で確認してみるといいでしょう。 ミュージアムショップ博物館内で展示されている彫刻品のコピーやインド文化や芸術に関する本、写真集やポストカード、ガイドブックやその他お土産にぴったりの手工芸品などが並ぶ。 ラシュトラパティ バワン(大統領官邸): 州議事堂の近くに位置するラシュトラパティ バワンは、国家元首である大統領が住む場所である。現在大統領官邸となっているこの建物は、英国統治時代にインドに配置された総督の官邸として使用されていたもので、宮殿複合体風に設計されている。黄砂岩と赤砂岩及び様々な色をした大理石が使われ、この巨大な宮殿には340の部屋、35のロビー、広大でよく手入れの行き届いた庭園や中庭、37の噴水を擁しており、インドの誇るべき建物のひとつに数えられている。このような重要な建築物は当然一般の立ち入りが制限されているが、有名なムガール庭園(恐らくインドの最良の植物園であり、希少価値の高い何千もの品種の木々や花、果物を有しているといわれる)は、毎年2月の下旬から3月の中旬にかけて一般の入場が許可されている。

ジャンタル マンタル
この天文台は、ファインアート好きの目から見ると、第一印象はどうしても抽象的に見えてつまらないかもしれないが、天文学という学術分野というものは、そもそも美術とはかけ離れた分野であるということを頭の片隅に置いて貰えれば納得してもらえることだろう。 ジャンタル マンタルは、ムガール帝国のアウラングゼーブ皇帝時代に、裁判所で活躍したジャイプールのスルタンであったRaja Sawai Jai Singh II(1699年-1743年)が描いた青写真によって作られた観測台である。自分自身を熱心な天文学者として自負していたSawai Jai Singh にとって、当時の天文観測技術は満足できるものではなかったという。 自分の統治領土の安定とムガール帝国との固い絆に安心した彼は、その注意を既存の天文学の修正へと移行し、もっと自分の納得がいき、既存のものよりもより信頼できる道具を備えた現代的な暦を作ることに情熱を傾けたのである デリーのジャンタル マンタルは彼が作った5つの観測所のうち、一番最初に作られたものであり、その他の観測所はそれぞれジャイプール、ヴァラナシ、ウジャインとマトゥーラにある。 Samrat Yantra は単純に等しい時間を刻む日時計であり、Ram Yantraは上空の角度を読むために使用された。Jai Prakash Yantra は太陽と他の天体の上空における位置を確認するためのものであり、Misra Yantra は4つの科学的な装置のコンビネーションであった。

サフダージュン廟
Lodhi通りの西の端に位置するこのサフダージュン廟は、1753-54年にかけて、Oudh のII Nawabの息子によって建てられたものです。(月曜のみ観光します) レッド フォート デリーに訪れたものは必ず観光するという名所、レッド フォート(別名:ラール キラー)は、ヤムナー河のほとりに建てられた、赤砂岩をふんだんに使用した要塞である。シャー=ジャハーン皇帝が首都をアグラからデリーに移すための最初の取り組みがこの要塞の建築でした。1648年に完成したこの建物は、デリー門とラホール門という2つの主要門から出入りできる仕組みになっていて、ラホール門は有名なチャンドニーチョウクと呼ばれる市場に向いている。中は、建築学博物館と言われるほど見どころが満載で、特に皇帝が一般民衆達の不平不満を聞くために設けたと言われる謁見の中庭(Diwan-e-Am)や、皇帝の重要な来賓を迎えたという特別な謁見の中庭(Diwan-e- Khas)は見逃せない。 また、ヒンディー語と英語で、毎晩上演される「音と光のショー」は、美しいパフォーマンスでデリーの歴史を再現し、観光客たちを魅了させてくれる。

クトゥブ ミナール
南デリーにその時代にしては最高の高さ、72.5mを誇るミナレット(塔)を持つ大きなモスク、クトゥブ ミナールがある。 1199年にイスラム教徒の皇帝クトゥブ=アッディン=アイバクが着工し、その後継者によって完成されたので、クトゥブの塔という名前がつけられた。塔の正面には鉄製の柱が一本立っており、専門家によると、これは5世紀に作られたものだということが判明しているが、未だどこも錆びていないため、この柱には何らかの魔力があるといわれている!! いつからか、ヒトがこの柱に背中を向けて後ろに両手を回してつなぐことができれば、そのヒトの願い事が叶うと言われている。 残念ながら近年、観光客などの数々の不慮の事故や自殺の試みなどにより、塔は立ち入ることができなくなり、柱も近づけないように柵が張り巡らされてしまったが、そこには数々の神話や伝説に満ちた古代の遺跡が沢山残っており、観光客のイマジネーションを高めさせ、当時の風景に思いを馳せながら散策ができるようになっていて、観光客の欲求をみたしてくれる。 また、ここは1993年に世界文化遺産に指定された。ロータス テンプル バハーイ寺院とも呼ばれるバハイ教の礼拝寺院で1986年完成。発祥地はイランで、中東に留まらず世界的な普遍宗教として、人類の平和と統一を究極の目標とし、真理の自己探求、男女平等などの教義、戒律を持つ宗教寺院。信仰の感情がそのまま寺院のデザインに映し出されたかのように美しいフォルムをもつこの寺院は、イラン生まれでカナダ人建築家のFariburz Sahbaによって設計された。インドの純粋さを蓮の花に模り、バハイで「ユニティ(結束や統一)」を意味する神聖な数字9をデザインに組み込んでいる。 プラットフォームには9つのプールがあり、これは純白の蓮の花を支える瑞々しい緑の葉を現している。全体では2層構造になっていて、第1層は天に向かう9枚の白い大理石で覆われた花弁、第2層は正門が隠れるようにする役目を果たしている。近くから見るとそれは、まるで素晴らしい折り紙細工のように見える寺院の内部は、特に、礼拝ホールは、全てのバハイ教の寺院のそれと同じく非常に静かで、少しの囁き声でさえも大きく響いてエコーとなってしまうほど精巧な設計構造になっている。また、聖書のコピーと木製の信徒席以外の宗教的偶像は一切排除されている。

ジャマ マスジッド
jama masjidシャー=ジャハーン皇帝の建てた最後の建築物で、1650年着工、5000人以上の職人たちの手によって6年かけて完成された、インドで最大のモスクである。皇帝及び王朝関係者のための金曜礼拝(一週間の中で最も重要な礼拝)用に建てられたこのモスクは、ムガール建築様式の代表作といわれ、特に3つ門があるうちの東門は最大である。この東門は、もっぱら皇帝の威厳ある支配能力を外に示すためにデザインされたといわれている。赤砂岩で造られた408平方フィートもある中庭の中心に、白大理石製の大きな水盤を構え、モスクへ入る前に信者達はここで体を清めたと言われる。玉ねぎの形を模ったような3つのドーム屋根に、白大理石で象嵌して装飾が施された建物がモスクのメイン部分である。高さ130フィートあるミナレット(塔)がモスクの南北にあり、これが街の景観を素晴らしくしている。ジャマ マスジッドは建築学的考策意外にも、宗教的に重要な場所であり、ここには預言者マホメットの顎鬚及び彼自身によって書かれた聖典コーランの一部が収容されていると信じられている。

ラージ ガート
この場所は国家の父親と親しまれたマハトマ=ガンジーが1948年に暗殺された後に火葬された場所であり、多くの愛国的インド国民の巡礼地となっている。暗殺された翌日、ガンジーはヒンドゥー教の教義通りこの場所で火葬にされて、灰はインド各地の川に流されたので、ここは墓というより記念碑のようなものである。人々はここへ、平和の偉大な主唱者に賛辞として献花しにやってくるのである。近くにはガンジーの記念博物館があり、そこには彼の著述書類、スピーチテープ及び回想本などを購入することもできる。ラージガートの北へ少し行ったところには、シャンティ ヴァーナがあり、そこはインドの政治における著名人であり、初代首相であり、歴史上唯一の女性首相であり、ガンジーの娘であるネルー首相と彼女の二人の息子(ラジプ及びサンジャイ)が火葬された場所である。

ラクシュミナーラーヤン寺院
有名な資産家のビルラ一家によって建てられたために、ビルラ・マンディという名前でもよく知られています。オリッサ建築様式で1938年に建てられた大きなヒンドゥ教寺院で、多くの信者がお祈りにやってきます。

フマユーン廟
フマユーン廟は、1565年にムガル帝国のフマユーン皇帝を亡くした妻、Haji Begumによって建てられた、水や噴水をふんだんに用いた庭園で、インドの初代ムガル建築様式の典型といわれています。赤砂岩と大理石を象嵌した装飾は、それまでの建築様式に新しい風を吹き込み、この様式が最高潮に達した建造物がアグラのタージマハルへとつながるといわれています。イラン出身の建築家、Mirza Ghyasによって設計された影響で、南と西に門をもち、高い塀で囲まれた真四角の大きな庭園の中心に色彩豊かなタイルを用いた装飾が施され、そして廟は四角い塔の上に素晴らしい純白の大理石のドーム屋根を載せ、いかにもペルシャ風の様式を醸しだしているのを見る事ができます。この大理石のドーム屋根はテラスの基礎部分から数えて140フィートの高さに位置し、銅製の小尖塔の装飾も施されています。この敷地内にはフマユーン皇帝の廟の他、沢山のムガル時代に亡くなった人々の墓も並んでいます。

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